番外編 『ねずさんのふたりごと 第17話 曲解される百人一首~恋の歌ではありません!~CGSねずさん』 uTYUBU

いやー、解りました!

”日本人の教養として百人一首は身につけるべきもの”との意識はあっても、どうにもこうにもつまらない。私の出身高校では冬休みの宿題に百人一首の暗記が出なかったもので、格好良くそらんじることも出来ない。子育てしていて、”子ども達にこそ!”という思いはあれどままならない。なぜって、百人一首って少しも面白くないから。

その謎が解けました! まったく嘘の解釈が、暗雲のごとく日本の国を覆い尽くしていたからなのですね。 人々が天皇のもとにあって営んでいるいる日々の中で詠まれた歌を、天皇を排除して解釈してもらったところで、そりゃ、「意味不明」でしかないでしょう。共感しようもないし、感動しようもない。ねずさんの解釈を聞いて、訳のわからない49番歌、すうっと心に染みました。

百人一首なんてくだらないと、感じているあなた、わたしと一緒に、是非ねずさんの本を読んでみませんか?

美しさへの昇華 『その先の道に消える』 中村文則(朝日新聞出版)

極めたものは美しい。内村航平の躍動も羽生結弦の銀盤の舞も、美女を縛る緊縛の技も変わるまい。観る者の性の嗜好を伴えば、果てしない高みに人を誘うに違いない。面白い世界を覗いた。

それにしても、縄の世界が江戸時代の日本から生まれたものだったとは、気付かなかった。

しかし、より強く私の興味を引いたのは、吉川一成の緊縛の師が宮司であった所だ。神社のしめ縄が麻であり、麻とは大麻であり大麻での神との交信があったのであり‥‥。なるほど。雄略天皇武烈天皇の荒々しさに、大東亜戦争の違った結末を感じてみたり‥‥。

知らないでここまで生きてきたが、神話を学ぶと言う課題がまたひとつ生まれた。

私も思い出した 『坂の途中の家』角田光代 (朝日出版社)

私も思い出した。世の中の仕組みの大事なことがいつの間にか決められていたことを

 

理紗子は、6週間後の刑事裁判の裁判員候補に選ばれたとの通知を手にする。2歳十ヶ月の娘を抱える自分が選ばれることはなかろうと、高をくくって出向くが、予想に反して(補充裁判員とはいえ)選ばれてしまい、そのまま法廷に向かうことになる。しかも、扱うのは30代専業主婦が引き起こした乳幼児の虐待死事件だった。裁判に通う内に、理沙子はどんどん被告と同じ思考に陥っていき、生き苦しくなっていき、もがき苦しむ。封印していたはずの自分の虐待行為の記憶があぶり出されてきて、あと一歩で自分もあの被告席に立っていたかもしれない、立つかもしれない現実を知る。

 

2004年、裁判員制度は、知らないうちに法決定されていた。毎日ニュースに目を通しているのに、気づかないうちに。

 ”こそこそと” ”なるたけ”気づかれないうちに” ”こっそり裏で” 話が進めたとしか思えなかった。種子法も水道民営化も、私たちが気づかないうちに決まってしまったが、それらよりもずっとずっと、はるかに国民の関心を呼び当然議論がわき上がる問題のはずなのに。

「日本という国は、こんな国なんだ。」あの時私は、そう思ったことを、私も思い出した。

小顔がカッコイイ! 『絶滅の人類史 なぜ「私たち」が生き延びたのか』 更科 功 (NHK出版新書)

小顔がカッコイイ!

美の基準は時代と共に移り変わるものです。人々が貧しい時代は豊満さが憧れとなり、飽食の時代には細い身体が賞賛されます。もちろん、多様性が声高に叫ばれる今の時代、好みは様々、”たで食う虫も好き好き”です。                    その中にあっても、”顔が大きい人がカッコイイ”と言う声は聞いたことがありません。誰も彼もが”顔小さい!”を褒め言葉とし、俳優たちに嬌声を浴びせかけます。

私たちの美意識が、すらりと足が長く顔が小さいという価値基準をまっすぐに追い求めているのは、いったいどうしてでしょうか?

人類の歴史

私たちの生物学的学名はホモ・サピエンスです。ホモ・サピエンスが30万年前に生まれたときは、ホモ・エレクトゥスやホモ・ハイデルベルゲンシスなどという他の人類も暮らしていました。しかし、ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)が4万年前に絶滅してから、人類は私たち一種となり、唯一の人類としてこの地球上に存在しています。私たちホモサピエンスは、実に、25代目の人類で、700万年の間に生まれ絶滅していった24種の人類たちの末裔だということを、まずおさえておきましょう。(24種の人類たちがどのように進化し絶滅していったか、私たちホモ・サピエンスがなぜ生き延びて今を生きているのか、それを解き明かしてくれるのが、本書です。)

脳の進化ー大型化へ

700万年前に人類は直立二足歩行を始めました。そして250万年前になるとホモ属が現れて、人類は脳が大きくなりはじめます。(驚いたことに、450万年もの間、脳はほとんど大きくなりませんでした。)脳が大きくなるのは進化には違いないのですが、これがなかなかひと筋縄ではいきません。 脳はカロリーの消費が激しいので、大きな脳を持つことにより新たに得ることが出来る食料の量と、脳を維持するのに必要なカロリーとがたえず天秤にはかられていたのです。そして、150万年前、大きな脳を持つホモ属の人種が何種も現れるようになりました。ホモ属は上手に脳を大きくし、群れという社会活動をするのに必要な認知能力を高めて、生存を有利に進めていきました。その中でネアンデルタール人は脳の大型化をきわめ、人類史上最大の脳の持ち主になったのです。

さらなる脳の進化-小型化へ

4万年前に絶滅したネアンデルタール人が脳の大きさのピークで、我々ホモ・サピエンスの脳はそれよりも小さくなっています。ネアンデルタール人の脳は1550CC、1万年前までのホモ・サピエンスの脳は1450CCで、現在のホモ・サピエンスの脳は1350CCです。食糧事情は良くなっているわけですから、こんなに大きな脳は要らないと、進化が脳を小さくする方向に進んでいるのです。(ちなみに、190万年前の初期ホモ属のホモ・ハビリスは509CCでした。)

小顔がステキ

ここからは私見です。脳が小さくなれば、頭も小さくなり、顔も小さくなる。私たちはいつでも、時代の先を行く人たちに憧れます。私たちの美意識は、進化という合理的理由を裏付けとして、確固たる自信をもって、小顔を支持し続けるのです。                                                                               

(ちなみに、すらりと長い足も進化の結果として獲得した形質です。)

追記

本書は、あまりにも面白すぎて、私は、3回読み返すまでページをめくる手が止まりませんでした。その中でひとつ、強く心に残るフレーズがありました。

 つい私たちは、進化において「優れたものが勝ち残れる」と思ってしまう。でも、 実 際はそうではなくて、進化では「子どもを多く残したものが生き残る」のである。「優れたものが勝ち残る」ケースはただ一つだけだ。「優れていた」せいで「子どもを多く残せた」ケースだけなのだ。(p.114)

私は常々、「人間は動物であり、その至上命令は、種を維持し繁栄させることだ」と考えています。種として存続するための再生産は生き物の責務と思います。あらゆる”個人の自由” ”多様性”は、それを踏まえた上で、”豊かな社会を築き上げることに成功した人類だから許される贅沢”として、捕らえる必要があると思います。

本書から700万年に及ぶ人類の歴史を学び、さらにそれをさかのぼって、初めて生命の火がともされた時までの、想像を絶するまでの長い時間に思いを馳せるとき、私たちは人類の命を大事にし、その存続に努めなければならないと思うのです。

番外編 中国指定座席占拠横行のYuoTube

さすが、中国はすごいですね。列車で他人の指定席を占拠して、移動を命じる車掌にどかじと必死で抵抗する女性の姿は、迫力満点でした。一緒に放送が流れたスウェーデン?のホテルの出来事も仰天ものでした。満室で断られた一家がホテルのロビーで夜明かししようとする。退去を求めても応じないので、ホテル側は強硬手段で力で引きずり出します。その様子の笑ってしまうこと!引きずられながら「人殺し-!」と叫んでいるのです。

まあ、べつにそんなことは驚きません。問題は、それに対する"識者”のコメントです。「人口が多いからいろんな人がいます。」すました顔でそう、おっしゃる。「オイオイ、それって国の態を成していないということでしょ。中国って領土拡張に励んでるけど、縮小もしくは分割しなくてはいけないということじゃないの? 他のコメンテーターの方、何か言ってョ!

あー、ここでも日本は溶けてる‥‥。

 

番外編 千葉父親による小4女児虐待死事件

テレビをザッピングしていて目にした画面。児童虐待死事件での児相の記者会見場面でした。テロップに、”対応した職員”とあり、ひな壇で答えている一人が、当事者であるらしい。「このタイミングで本人が会見?」驚きました。組織の長が会見で矢面に立ち、取りあえず当事者をガードするのが、普通でしょう。

わたしは、この事件が報道されたときから変だと思っていました。

窓口で脅され、アンケートのコピーを渡してしまったというのはとんでもない話で、この方は児相職員でありながら、虐待に加担したに等しく、大変なことをしてしまったわけです。でも、事務所ででしょ?  一人で、怒り狂う父親に脅され続けていたわけではないでしょ? 他の職員は何をしていたの? 上司は何をしていたの? 他の職員達がが、見て見ぬ振りをして息を潜める事務所の様子が、ありありと目に浮かびました。

そんな職場だから、「この職員がやりましてねぇ。」と言わんばかりに、当事者をカメラに晒し、自分たちを安全圏において平気でいるのでしょう。

ザッピングしただけで会見の様子は見ていません。ですからあくまでわたしの推測です。でも、きっとわたしの推測は正しいと思っています。

これって、学校の教室でのいじめの現場と同じですよね。回りの生徒は関わりを避け傍観している――。虐げられた児童を護るための児相でこんなことが起きているなんて‥‥。愕然としました。

でも、それを指摘する記事やニュース報道をわたしは目にしていません。日本の社会は溶解しつつあります。

活字と音符 『蜜蜂と遠雷』 恩田陸  (幻冬舎)

眠くならないクラシックコンサートは、初めてかもしれない。いつもすぐに眠くなるのに―-―。

 

本を開いたその時から、私はコンサート会場にいた。流れ出るピアノの音色を聞き漏らさないよう、私の目は必死に活字を追った。ピアニストの指の動きに釘付けになりながら、心で直に音を聴いていた。そこに聴覚はなく、心の鼓膜にピアノの音が鳴り響き、私は音楽のうねりに身を任せた。

 

一気に読み終えると、私はピアノ弾きの友人にラインをした。          「『密蜂と遠雷』読んだ? コンサートに行く以上に音楽を感じた。 活字から心に音が流れ込んでくるなんて、初めての体験。感想聞かせて!」              「10年位前の漫画のぱくりだね。アニメにもなったよ。話は漫画で音はアニメだね。」なんともつれない返事。                              「活字だから、読者の好きな音が脳で再生されるで! 音楽の感動は生音に限る。あんたは自分を培った要素に言語が大きくあるから敏感に反応するのやろうね。 私は高校のクラス分けの時から、音楽と美術から離れられない。だね!」

なるほど。

私には、最高のピアニスト達による紙上コンサートだったというわけだ。拍手喝采